地域と川上酒

川上酒1700年の伝統と丹生都比売神社

かつらぎ町で伝統を受け継ぐ酒文化の歴史はおおよそ1700年前までさかのぼります。
丹生都比売神社のご祭紳である丹生都比売大神(にゅうつひめおおかみ)が紀ノ川流域の三谷に降臨されたのは約1700年前。そこにお酒を献上するために丹生酒殿神社が建てられました。
以降、大神にご献酒するためにお酒が醸され、現在では弊社がその役割を担っています。

川上酒の成り立ち

江戸中期、川上酒が生まれた時代。
農民の一揆と米の収穫高の問題で紀ノ川の水を農業用水に使えないかと考えた紀州藩徳川吉宗が、大畑才蔵に小田井用水(世界灌漑遺産)の開発を命じました。小田井用水により多くの水路が引かれ水車が設置され、米の精米技術が向上。それにより、多くの品質の良いお酒が造られるようになり、紀州川上酒の発展へと続きます。

現在も残る小田井用水

紀州藩から川上酒と呼ばれた銘酒

地元産の良質な酒米と和泉葛城山系の伏流水による酒造りが盛んになり、紀州藩に献上されました。
「各郡皆醸(かも)す。中にも伊都郡諸村(いとぐんしょむら)にて醸(かも)するもの上品とす。是(これ)を府下(紀州藩=和歌山市)にて川上酒(かわかみしゅ)と称す。」-和歌山県歴史書物 紀伊続風土記(第三巻)-
和歌山城から見て紀ノ川上流にあたる橋本市から紀の川市までの地域は、「紀州藩の川上」と呼ばれており、その地域で醸したお酒を「川上酒」と称されると、人気を博し、和歌山城下はもちろん大坂や京都、江戸にまでその名は知れ渡り、紀ノ川の水運を利用して全国津々浦々へと出荷されていました。

高野山と川上酒

高野山とお酒は深いつながりがあり、面白いストーリーがあります。
まず、「塩酒(おんしゅ)一杯これを許す」という言葉があります。
真言宗の開祖、空海(弘法大師)はお酒を薬として用いることは認めていました。
もう一つに弊社の看板商品である「般若湯」、般若とはサンスクリット語で知恵を表し昔、修行でお酒が飲めないお坊さんが知恵をいただくとして般若湯(お酒)を飲みました。
このように高野山とお酒は密接な関係にあり、明治時代以降の資料でも、かつらぎ町のお酒「川上酒」が高野山へ運ばれていました。
また、川上酒との関係が深い丹生都比売神社と高野山とも関わりが深く、舞楽などお祭りや祈りを神社とともに高野山の僧侶も加わって捧げていました。

唯一残る酒蔵として

紀州随一の酒処だった紀北川上は、天保12年(1841)には、粉河から橋本までの大和街道沿いに33軒もの蔵があり、現在のかつらぎ町域には約半数の16蔵が軒を連ねていたといいます。
現在、川上酒を醸す酒蔵とし、唯一残る当蔵は、この地の歴史深い川上酒を慶応二年より代々継承しております。
地域の魅力が詰まった川上酒の文化を、魅力ある酒造りで後世へ繋いでまいります。